乾癬を誘発し増悪させる主因の一つは、高度に汚染された微粒子状の汚染物質である。
高度な大気汚染物質が静電荷によって皮膚に付着しすると微視的に傷害する。
(また、呼吸器からから取り込まれることで免疫を過敏にする)、これが乾癬体質者の乾癬を誘発し増悪させる。
私は、この事を自分自身を対象に深刻な大気汚染のバンコクや環境汚染のない色んな土地で実験した結果、突き止めた。
副題:
乾癬を治したいと決意して、必死の思いで、大気など環境汚染の深刻なバンコクや近郊から、皮膚や体に優しいパラダイスを探し求めて、私は旅立った。
チェンライ→ラオス→サタヒップ
以下のブログを、世界の 乾癬友の会 の皆様に捧げる・・・
第二話
(多くの写真を準備中です)
私は2歳のななみ達を連れて、日本から来た知人の男性(Nさん)と一緒にチェンライ・ラオス紀行へ、私の主催する海外支援医師の会 の“取材専用車“で行くことになった(イスズのバンにキャリーボーイ社のエアコン、オーディオ完備のオプションを付けてランドクルーザー風に改造したもの)。
海外支援医師の会は・・・
1999年に創立された時から数年間は北海道の十数か所の特別児童(=孤児)福祉施設や老人ホームなどで活動。次の写真で紹介したように色んなジャンルのプロの演芸師の協力を得て、子供たちのみならず施設のスタッフも楽しく見てくれるようにコーディネート。しかし主役はなんと言っても大学4年生を中心に振り付けも華やかなチャイルドソングの演奏会とお誕生会だった。






最後の写真のマジシャンはテレビでも有名なコタロウさん
その後、海外支援医師の会は海外へと軸を移す。
舞台がタイに変わってからは主としてバンコクで、いろんな孤児施設とか、異色なところでは女児支援施設であるガールズ・ハウスなどで活動をしていた。
下の複数の写真はバーン・ク・ノーイでのもの。一枚目の写真は後列右からKさん(有名大卒業後訪タイ、3ヶ月でタイ語をほぼマスター。うちではHPつくりと通訳を)
次はさやか;厳しい教育パパから、当会で活動することを条件に許されて来タイ。エンジェルままとして最適な資質の方だった。3人目はラウムカウヘン大学に通いながら当会でエンジェルママなど幅広くこなす。4人目がク・ノーイ。5人目は私;このころは、当会を異色の存在として印象つけようと、奇抜な色に染めていた(笑)6人目はいろんな施設とボランティアの交渉する秘書のジャッキー。




最後の写真はx-mas society(=海外支援医師の会)コンサートを担当して来た ザ・バッチェラーのバンド演奏。子供たちは熱烈に喜んでくれた。
下の各写真は老日本人が孤児院として創立、その亡き後、タイ政府が支援しているドンプラティプ財団での我々の活動
1,2枚目は訪問を歓迎するダンス、次は陸軍アカデミー(音楽隊)の軍人・クワーンによる国歌と国王賛歌のバイオリンのあと4枚目のバンッチェラーのコンサートが開幕する、という図式。クワーンはプロのビオラニストの友人と一緒に当会に協力してくれていた。



演奏終了後は当会主催のお食事会で、子供たちだけではなく、近所のお年よりも招待して楽しい一時をすごした。写真はお年寄りに食事を盛り付けるクワーン


バッチェラーは、、忙しい演奏仕事の前の昼間ならという条件で、タンブンとして協力してくれた。上の写真は業務としての演奏の光景
ガールズハウスは、恐れ多い王族が創立した被虐待女児支援施設で、一般ボランティアは許されておらず、経歴やら資産などの証明書などを出て審査された上で やっと、大きな所長室に我々を招き入れ、かしずかせ、海外向け紹介映画を見させて、そして所長のお言葉を賜った後で、始めてボランティアさせて頂いたのだった。冷や汗がどっと出た記憶がある。

まあ、こういう状況で、団員だけなら10数名くらいで活動をしていたのだが、ある出来事が起きた時を境に実働的な活動から、海外邦人とくにタイに移住を目指す邦人への文筆を主にした啓蒙活動へと大きく舵を切ったのだった。
それは馬鹿馬鹿しいできごとだった・・・タイでは知らない人がいないというほど有名なバーン・ク・ノーイ(元看護婦さんのノーイ先生の家)へも、私は、タイ人と(ボランティアで日本から参加してきた)エンジェル・ママ達を連れて何度も慰問したのであるが、バッチェラーという名の7,8人編成のプロのバンドにも、毎回 協力してもらい子供が大喜びする歌(ミッキーマウスや、熊さんなどの子供の歌)をエンジェルママ達の振り付けつきで演奏していた。最初の頃こそ周りに住む(下層階級?)人たちも物見遊山で観劇にきてくれ協力的だったものの、バッチェラーバンドが張り切りすぎて、その演奏たるや大音量を伴う本格的なものなので、これが災いした。
他の施設では広大な敷地に建っているので施設や子供たちからも喜ばれこそすれ問題はなにも起きなかったが,・・・・何しろココは入り口までの20mほどの路地がリャーカーさえ入れない間口80センチ有るか無いか(両側は土の塀)と言うほどの、セセコマシく民家が密集した特殊地域であったため、或る日の慰問で演奏していたとき、近所の住人連中がウルサイといって抗議に押し寄せてきたのだ。
この施設は有名な女優さんやタレントさんがよくタンブンにくるところで、そもそも、あの有名な英国プリンセスがフランスで自動車事故で亡くなった時に同乗していた若い資産家の父親(大富豪)がタンブンによってこのバーンクノーイは創設されたのである。
この出来事に私はショックを受け、寄付金のお金以外は余計な世話だったのかと、痛感する事しきり。バンドをセットしたりエンジェルママ達の振り付けや陸軍のアカデミーから友情出演までセットした大作業が、馬鹿馬鹿しいものに見えてきた この忌々しい出来事を、キッカケにすることで、自分に納得させる?形で、この種の活動は辞めてしまったのだった。
とは言え、すべてが、私の気持ち的に、馬鹿馬鹿しくなってしまったかというと、そうではない。某高齢日本人が創設してその死後タイ政府が支援しているお金持ちの孤児院=ドンプラティープ財団の場合などを筆頭に、クノーイ以外の多くの施設では、寄付金やお食事会などに相まって、このエンジェルママの振り付けのついたプロの演奏が評価されて色んな感謝状を頂戴したのだ。
我が会だではなく、バンド演奏に先立ちタイの国歌や国王賛歌などをバイオリンで独演したクワーンの場合は、陸軍アカデミー(音楽隊)所属の軍人ということで、敬意を表して、クワーンさん他、数人も丁重な感謝状が贈られたのだったわけで大いに喜んでもらえたと自負している。

次はNさんが里親をするキッカケになったミラー財団の話・・・・・・
この辺で元のチェンライ・ラオス紀行に話を戻そう。紀行する最初の北部タイの町としてチェンライを選んだのは・・・
日本に住んでいるNさんの娘さんが卒業したのと同じ大学出身の女性が専門用語で言うなら RM つまり、リレーションシップ・マネージャーとして、チェンライの山岳民族村でボランティア活動をされておられる。そのミラー財団(ムッニーチ・ガチョック=ミラー・ファウンデーション=ガチョックはタイ語で鏡、つまりミラーの意)のお世話で、我が友・Nさんが山岳民族の貧しい子(小学生)の里親をしていて、その里子と会う目的があったのだ。
村に行って見て驚いた。私がタイに来た最初の数年間活動していた孤児施設のドンプラティープ財団(ムッニーチ・ドンプラティプ)などとは月とスッポンほども違うのだ。バンクノーイでもまだまだ十倍以上も裕福に見える。なにしろク・ノーイつまりノーイ先生は、テレビなどにショッチュウ出演してはタンブンを仰いでるので、誤解を恐れずに言うなら、お金持ち孤児院なのだ。実際いろんな意味で恵まれている事は、彼女の大福さんか布袋さんのような体型からも一目瞭然だ。
それで、私は、ここのような村こそ真にボランティアの支援を必要としているんだな、と冷水を浴びせられたような気持ちになり、RMの彼女やアシスタントのエミさんらの熱意に打たれたのだった。興味ある方は次をクリック


ココでのボランティアに比べれば私がしていたドンプラティープでのボランティアなんか、金に飽かした道楽の自己満足に過ぎない。バンクノーイの地域の住民からウルサイと抗議されて当然な訳。
まずNさんがこの村で初詣の5日間を暮らす事になると言う小屋を見に行った。驚いたのなんのって・・。広さが12畳くらいある内部は全部 黄色の粘土を固めてできていた。土壁に土床。ベッドに相当する壁に近い所に高くした部分も、土を固めて作られており、それも決してまっ平らと言うのではない。デコボコだらけなのだ。この部屋で同じような立場で来ている若者達と一緒にNさんは5日間暮らすという。頭が下がる一幕であった。
けれども、私は、何しろ、ほら、あの乾癬という非常に辛い病気の治験(治療実験)の目的を携えての初詣であったので、町の中のホテルに泊まる他ない。2歳のななみと、ラオスでの通訳というに任務がも控えた ななみ の母親のチャンヤー達もまた、チェンライの『非常に仲良しそうに見えた』従兄弟が嫁入りしていると言う家に泊まる事になった。
非常に仲良しそうに、と殊更書いたのには訳が有る。このチャンヤーと言う女は、実は誰とでも仲良しになる天才と言っても大袈裟ではないほど、何処の土地へ行っても相手を選ばずモノの1分もあれば直ぐ仲良くなる。ラオスでもラオスの大学生とNさんがペンフレンドになったキッカケの場合もそうだったし・・。
普通にしていただけでも、誰とでも(金持ち、貧乏人の差なく)仲良くなれるチャンヤーがこの従兄弟と特別“非常に仲良し”というのだから、どのくらい仲が良かったかが分っていただけると思う。旅行に行く前から毎日のように電話で、四六時中、会話をしており、それもクスクス笑いや、まるでレズの恋人と話しをしているんじゃないかと、錯覚せざるを得ないほどの大の仲良しなのだ。
まあそのお陰で、私はチャンヤー達に煩わされることもなく、一人でノビノビと、大晦日から正月にかけての数日間をホテルで すごす事が出来たわけだが・・。何しろ私のこの乾癬は、精神的肉体的なストレスでも悪化するデリケートな病気なので、北部タイのきれいでヒンヤリとした空気のなかで≪乾癬が軽快するか否かの実験≫をするには、煩わしい事を一切に排除した環境が必要なのだ。
一方二人は従兄弟とお喋りを楽しんだようだ。
下の写真は別々に行動する別れ際に夕食を楽しんだときの写真で、左から二人目が従兄弟。 
チェンライビーチと言うと、エッ、チェンライに海があったけ?と一瞬違和感覚えるが、メコン川にはビーチだけでなく島もある。この看板の向こう側にメコンがある。
3、4枚目の写真はこのビーチの対岸にある断崖絶壁の大きな洞窟に造られた中国寺院。



4人で行った花のフェスティバル
幸運にも出会った、この花のフェスティバルは、以前チェンマイに住んでいた頃、何度も行ったチェンマイ・ラチャプット(=チェンマイ花博)に決して見劣りしない大規模なものだった。
目から鼻に抜ける色鮮やかとその香りは何時までも記憶に残るはずだ。




さて、私たちは、これらの物見遊山を楽しんだ次の日に、ミラー財団に行ってみた。おやっ、誰もいない・・・
部落の住民に聞くと、Nさんらは、山岳地帯にある有名な国境の山岳民族村プー・チー・ファーに、ミラー財団のミニバスで行ったと言う。
この町は昔から、正月の初日の出を見る場所としてタイ人には知られている。タイに来た当初から私はこのことを知っていて、かねがね行って見たいものだと思っていたが地図で探すと、この村は、実に、北部タイの東の最果ての辺境にあった。そのせいで、ついぞ機会に恵まれなかったわけであるが、今こそチャンス到来と ななみ だけを連れてチェンライから150キロ離れたこの辺境へと“道に道を継ぎ足して”向かったのだった。なにしろ最果ての辺境の村なので、直線的に行ける訳ではなく、それどころか斜めに走る数十もの悪路を継ぎ足して行くほかない。
村からあと十キロという箇所にかかったときなど、道が急峻な悪路(もちろん土の道)となっていて、2輪駆動ではズルズルと滑るのだ。もしこれが10キロも続くのなら、もう中止にしようかと躊躇した位の悪路だ。駆動スイッチを通常走行の2Hから、4Hを通り越して4輪固定4駆の、4L走行にしてやっと走れる道だった。
幸いにして2,3キロほど走ると道は大分よくなってきた。いろんな山岳民族村を通り過ぎて、遂に私と ななみ はプーチーファーに到着した。なるほど有名なだけあって、数百かそれ以上もの車が各地から初日の出を拝もうとやって来ており村の頂上に行く入り口の検問所では非常の混雑していた。それで私はその近くにあるお土産売り場と見晴台での初日の出で満足することにした。ただ、見晴台までの2キロの道を、ななみを連れて歩いていると、大変時間がかかり事が分かり、この分では付いた時は暗くなって帰り道が危ないと判断。1キロ先の見晴台には、見物客が鈴なりになっているのが前方に見えたのだが・・・安全の為、潔くあきらめて引返したのだった。



















大災難編

お殿さま方、○○に ご油断 召さるな!
)は別の意味の○○大国!










by nnanami2
第3話:ラオスの険しい山々と…